恥を知れ、中島梓――第二十二回日本SF大賞・中島梓の「選評」批判

鈴木力

 婉曲な表現をとるべきか、それとも率直にいうべきか、迷いがあった。だが、どんな書き方をしようともいいたいことはけっきょく変わらない。後者をとることにした。
 まず結論から述べる。第二十二回日本SF大賞の選考委員・中島梓は、プロであるとアマチュアであるとを問わず、物を書く資格がない。ましてや、賞の選考委員として他人の作品を云々するなどもってのほかというべき見識の持ち主である。彼女が『SF Japan』四号に、賞の選評として寄せた「素晴らしき授賞」と題する一文は、そう断ぜられてしかるべき代物であった。
 中島の「選評」は全部で四段落に分けられる。第一段落では、全体の総評、および中村融・山岸真編『20世紀SF』と金子隆一『新世紀未来科学』を推さなかった理由が述べられている。ここのくだりは問題ない。中島の意見には首肯しかねる部分は多々あるものの、そこは個人間の見解の相違と認めれば足る。
 問題はその先だ。第二段落を全文引用する。

 残る二作の小説作品については、ものすごい批判になってしまいそうだからあえて触れません(爆)が、私としては、いっぽうについては、「芥川賞作家の、それも特に最高傑作であるとは思えない作品に頼まれてもいないのに授賞するというのは、いまだに残存する日本SF界の純文学コンプレックス以外の何者でもないのではないか、またそうとられても仕方がない、かえって日本SF界を誤解させる行動ではないか」という恐れを非常に強く感じた、ということは云っておきたいと思います。まああと、「個人的な小説の好み」というものがどうしても介在してしまったことは申し訳ない。中島が選考委員だったのが不運だったとあきらめて下さい。

 第二十二回日本SF大賞の候補作は、以下の五作である。

 五作の編著者のうち、芥川賞を受けたのは奥泉光しかいないから、右の引用で言及されているのは『鳥類学者のファンタジア』であるとすぐわかる。ここでほかの選考委員が、同書についてなんと評しているか見てみよう。

「まずもって、作者ならではの豊饒な語りと薀蓄が魅力の大作。後半に至って次第に鮮明となる壮大な仕掛けや透明な幻視の光景は、時に新鮮な驚きをもたらす」(川又千秋)、「個人的には高く評価したい境界領域文学の秀作だが、これも残念ながらSF的設定という尺度からすると最終的には外さざるをえなかった」(巽孝之)、「世評の高い作品ですが、(小説として候補作となった――鈴木註)三作の中では、いちばんSF性は希薄。タイムトラベルと音階のアイデアもいまひとつ説明不足のような気がするし、部分的に提示されるおいしそうな材料が有機的に絡んでこないのも、読んでいて歯がゆいというか残念」(とり・みき)、「“オルフェウスの音階”“ロンギヌス天体”といった音楽的インテリジェンスにあふれた仮想モチーフには強い魅力を感じるが、他方では押しつけがましいモダンジャズ談義や作者だけが面白がっているなくもがなの脱線が多く、いかにも純文学作家が余技にSFを書けばこんなものというスノビズム(作者は意識していないかもしれないが)が透けて見えて興をそがれた。このていどのストーリーならもっと文章のムダを削ぎ落とし、この三分の二の分量の引き締まった作品が書けたはずだ」(南山宏)

 私個人の『鳥類学者のファンタジア』観を述べれば、川又千秋・巽孝之に近く、南山宏とは正反対の立場にある。だが問題はそんなことではないのだ。今回の候補作選定について「日本のSF界が依然として純文学コンプレックスと体制科学コンプレックスから抜け出せていない現状が象徴されていて、正直なところいささか残念な気がする」という南山すら、『鳥類学者のファンタジア』という小説については、授賞を認められない理由をきちんと書いている。私は南山の意見には賛同できないが、作品に即した指摘がある以上、それはそれでひとつの立場として認めたい。むしろ選考委員のなかで中島だけが、『鳥類学者のファンタジア』という候補作に対し、その出来のよしあし、日本SF大賞にふさわしいか否かを具体的に述べることなく、「純文学」であること、作者が「芥川賞作家」であることにひたすら拘泥し、なぜ同書が賞に値しないか説明しないことが問題なのだ。
 純文学。芥川賞。中島は『鳥類学者のファンタジア』を、そういうレッテルのもとでしか見ていない。「中島が選考委員だったのが不運だったとあきらめて下さい」とゴニョゴニョ口を濁しつつ、そのくせ「頼まれてもいないのに授賞する」とは、なんという傲慢な言い草であるか。仮の話、奥泉がSF大賞をくださいと懇願したら、彼女は『鳥類学者のファンタジア』を推すのだろうか。純文学に対する劣等感と、その補償として出てくる尊大な姿勢。これこそ「純文学コンプレックス」の最たるものでなくてなんであろう。
 先に進む。第三段落で中島は『かめくん』について、初読時に好感を持ったこと、他の候補作を読んだあとでその印象が相対的にアップし「いささか消去法的」に大賞に推した、と述べ、続く第四段落でこう書く。

 幸いなことにというか、炯眼恐れ入りましたというか、私が「この作品が推されたら機関銃を乱射して選考委員と編集者を皆殺しにして逃走しよう」と考えていた作品に対して、選考委員の全員が「この作品だけは推されないようにと」「この作品を推す人がいたら喧嘩しようと」「この作品をSF大賞にという人がいたらどうしようかと」思って会場に来られた、と口をそろえて発言されたので、あらためて日本SF界、というよりSF大賞の今回の選考委員諸兄の感性の鋭さに敬服いたしました。(略)

 先の第二段落といいこの箇所といい、中島がどの候補作を指していっているのかバレバレなのに、どうしてこう姑息で陰湿な書き方をするのだろうか。まあいい。その件はいったん措く。まず検討すべきなのはこの「機関銃作品」(仮称)への評価の根拠だ。
 中島は「機関銃作品」について「この作品が推されたら機関銃を乱射して選考委員と編集者を皆殺しにして逃走しよう」と評する。そう考えるのは彼女の勝手でべつに構わない。私だって他人の文章を読んで機関銃を乱射したくなることはままある(たとえばこの「選評」とか)。ではそう考えた理由はといえば、「選評」のどこを探しても一言も書いていない。他の選考委員もそういってました、としかないのだ。印象批評以前の風聞批評とでも呼ぶべきもので、いやしくも賞の選考委員を名乗る人間の態度とは思えない。だいたい他の委員の考えはそれぞれの選評で述べられるはずなのだから、彼女があれこれ漏らすこと自体、他人の権限の侵犯というのは大げさにしても、いらぬおせっかいであることは間違いなかろう。ちなみに他の選評をいくら読んでも、「この作品だけは推されないようにと」「この作品を推す人がいたら喧嘩しようと」「この作品をSF大賞にという人がいたらどうしようかと」などといった発言は出てこない。
 私が「選評」を読んで心底許せないと感じ、中島の物を書く資格まで疑わざるをえないのは、このような彼女の責任回避の態度にある。
 ある候補作に「ものすごい批判」を投げつけたくなった。それなら具体的な論拠を挙げたうえで、心ゆくまでものすごい批判を書き連ねればよろしい。それがまともな選評として読まれるかは別問題だし、その作品の作者、あるいは推薦した人たちからの反論もあるだろうが、自分の発言に責任をとるとは、そういうことにほかならないのだ。しかし彼女は責任をとろうとしない。「ものすごい批判になってしまいそうだからあえて触れません(爆)」といいつつ他人の作品を悪しざまに取り上げ(作品名は挙げないのに読者にはバレバレの書き方をして!)、しかもその論拠は、みんなもそういっていたから、とくる。二十年以上も文芸評論の仕事をしていながら、基本的な物を書くマナー、他人の仕事を評するときの姿勢もわからないのか。
 彼女は、栗本薫名義で発表した『魔の聖域』の「あとがき」で、インターネットに氾濫する匿名の悪口に触れ、こう書いている。

 (略)そして私が「自分の名前において」責任をもって公開する文章にたいして、意見を異にしたり、論駁することはできても、匿名で卑劣な悪口をいったりそれをみて興じている人たちが「お前は褒め言葉以外ひとのいうことをきかないのか」と実名で発言している私にむかっていう資格は一切ないと私は思います。匿名ならば何をいってもいい、責任はとらない、しかしひとには責任をとることを要求する、というのは、匿名の自由のはきちがえであると思います。

 なるほどネットの匿名の悪口は卑劣である。だが、中島の批判した無責任さが、ほかならぬ彼女自身の、それもSF大賞の「選評」というかたちをとって再現されてしまったら、読者は彼女の発言のどこに信をおけばいいのか。自分の発言に責任をとりたがらないという点で、ネットの悪口と「選評」とのあいだにどれほどの距離があるだろう。「選考委員なら何をいってもいい、責任はとらない、しかし候補作の作者および他の選考委員には責任をとることを要求する、というのは、選考委員の自由のはきちがえであると思います」。『グイン・サーガ』の読者には大見得を切っておきながら、いざ他人に物申す段になるとこの有様。こういうのを日本語で二枚舌という。単なるネットの落書きと比べて、姑息ながら手が込んでいるぶん、どちらがより悪質かは論をまたない。あげくの果てが「あらためて日本SF界、というよりSF大賞の選考委員諸兄の感性の鋭さに敬服いたしました」というヨイショである。馬鹿馬鹿しい。それなら南山のように、機関銃を乱射したくなる作品を候補に挙げた日本SF界の見識を正面から批判すべきで、選考委員諸兄を持ち上げている暇などないだろう。日本SF大賞を選ぶという重大な責務を負わされているのに、こんな「選評」を草することしかできないのなら、選考委員など辞して授賞パーティの幇間でもやってるがよい。ネットの悪口まがいの「選評」を書かれたうえ、ヨイショの材料にされてしまった「機関銃作品」の作者こそ、まったくいい面の皮である。
 劣等感と裏表の強圧的な態度。周囲への露骨な媚び。主体性の放棄と責任逃れ。
 思うにこれは、奴隷根性と呼ばれるものではなかろうか。そして、奴隷根性の持ち主に他人の仕事のよしあしなど判断できるはずもないことは、自明の理である。
 もっとも、人間関係に強い弱いがある以上、私だっていつ奴隷の身分を強制されるかもしれず、その意味で中島の「選評」は、文学的価値はともかく心理学的考察もしくは憐憫の対象としては珍重されるべきなのかもしれない。しかしだからといって、こんな選「評」にもならない文章を書いていいのかは、まったくの別問題だ。  恥ずかしいのは、奴隷になることではない。奴隷根性に染まることだ。さらに恥ずかしいのは、それを自覚せず衆目にさらすことだ。日本SF大賞の選考委員という肩書きの人間が、奴隷根性丸出しの発言を堂々とすることによる、SF全体のイメージダウン、SFへの汚染はいうに及ばない。
 だから私は、必要があれば何度でも繰り返す。恥を知れ中島梓、と。


鈴木 力(Suzuki Chikara)
rikisaku@msh.biglobe.ne.jp

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