「常識」の困難さ――無限のリヴァイアス

鈴木力


※筆者より――なにをいまさらの『無限のリヴァイアス』評。いまさらなのは当り前で、本放送終了直後の2000年春に、このサイトの家主が管理していた別のサイトのために書いた文章なのである。長らく死蔵されてきたが「ついでだからアップしましょう」という家主の提案に甘えて、ここに公開する。だれかがこの拙文を読んで『無限のリヴァイアス』という傑作アニメに興味を持ってくれたら嬉しい。ちなみに映像ソフトは、バンダイビジュアル(http://emotion.bandai.co.jp/)から発売されている。


 小説でも漫画でも、なんでもいいのだが、ある作品に接していてむしょうに歯がみしたくなるときがある。ああ、もうちょっとなのに、ここさえよければパーフェクトなのに、と思うときだ。
 もちろん、それは期待の裏返しである。はじめから屑とわかっているならそんなことはしない。さっさと忘れてしまうにかぎる。だが、たとえば週1回の連続TVアニメなどは、毎回の出来不出来を計りつつ自分と作品の距離を調整していく側面があるので、こちらの要求するレベルに向こうがきっちり応えてくれたりすると、自分のなかで期待のフィードバック現象が起こって、これならここまでやってくれる、いやそうでなきゃ嘘だ、という思いが過剰に膨らんでしまうことになる。友人のY君はTV版の『エヴァ』でこれをやって痛い目に遭った。
 期待に応えられない送り手に責任があるのか。信じるほうが莫迦なのか。『無限のリヴァイアス』の最終回を観ながら、そんなことを考えた。
 『リヴァイアス』は、谷口悟朗監督の言を借りるならば、SFよりもむしろ青春群像劇として位置づけられるべきものらしい。僕が観たかぎり、それは正しい。地球軌道上にある航宙士養成所が、仕組まれた事故によって漂流を始める。教官ら大人は、殺されるか、避難活動の途中で殉職するかして全滅し、あとには十代半ばの少年少女487名だけが残される。彼らは養成所の構造物に隠されていた謎の宇宙船・リヴァイアスに乗って救助を待つことになる。だが、複雑な政治的事情は子供たちを助けるどころか彼らにテロリストの汚名をかぶせ、あまつさえリヴァイアスを攻撃することで事故の真相を闇に葬ろうとする。一方、少年少女は試行錯誤しつつ艦内の秩序を保とうとするが、やがて彼らのなかで様々な軋轢が顕在化していく――。ドラマは、背景となるSF設定や大人の政治闘争の描写を最小限に抑え、艦内の人間模様を中心に展開する。
 物語は暗鬱な基調を持ち、最終回直前の第25話まで、まったく視聴者の予断を許さない。この作品を凡百の青春ものから際立たせているのは、主人公たる相葉昴治の設定だろう。彼ほど平々凡々たる主人公も珍しい。成績は中くらいで、特筆されるべき技能はまったくない。腕力はゼロに等しく、弟の祐希からエキストラに至るまで、悪いことをしていないにもかかわらずあらゆる人間に殴られる。かといって負の聖徴たるトラウマなども持ち合わせない――つまり、昴治は主人公の特権性をはじめから与えられていないのである(かの碇シンジ君でさえ、エヴァの操縦能力とトラウマを持っていたというのに!)。エキストラがたまたま艦内の出来事を俯瞰できる位置につけられた、とでも言えばいいか。彼のスタンスは、驚くべきことにクライマックスまで貫かれる。その美質をあえて挙げるとすれば、自分の無力さに絶望しないことくらいだ。昴治は切迫していく情勢のなかで、おのれに突きつけられた問題を真剣に考え、決断し、誠実に対応しようとする。少しでも自分たちの環境がよくなるように、と。しかし、いくら真剣で誠実になったところで万事うまくいかないのが『リヴァイアス』の怖ろしいところで、彼はしばしばその決断によって、もちろん成功することもままあるが、逆に痛い目を見たり、友人を失ったりもする。相葉昴治の姿を簡潔にまとめるならば――身も蓋もないくらいリアル。あまりに完璧からほど遠いので、かえって自分を投影するのがためらわれるくらいだ。
 もうひとつ指摘しておきたいのは、キャラクター描写の力点の置き方だ。ざっと数えただけでも両手に余る主要キャラのなかには、過去に受けた精神的打撃を引きずっている者もいる。けれども彼らのトラウマの内実は、舞台の背景と同様にぎりぎりの少なさで描写されるか、場合によっては示唆されるだけにとどまっている。これを登場人物の描き込み不足と見る向きもあるだろうが、僕はそういった考えに立たない。物語の関心は、キャラクターたちがいままさにリヴァイアスでどういう行動をとるのかに集中しているからだ。この、過去よりも現在、内面より行動、心の傷より意志を重要視する考え方が、ドラマに強烈なサスペンスを付与してる。ある決断をせざるをえない場面があって、しかも決断が正しいのかどうか誰にも保証できなくて、しかしその結果については成否を徹底的に検証し責任をとらせる――そんな苛烈さこそが、視聴者を引き込んでいったのである。少年少女たちの振る舞いは説得力ゆたかでありながら、安易な予想を常に裏切っていく。
 その背後にあるのは、非情な現実のなかで十代の子供が必死になっても子供なりの対応しかできない、という視線である。それを常識の目の高さと言ってもいい。本作と『伝説巨神イデオン』の類似を指摘する声もあったが、むしろ僕が連想したのは、同じ富野作品でも『無敵超人ザンボット3』だった。思えば『ザンボット3』も、巨大ロボットアニメに常識の視線を持ちこんだ作品だった。ロボットが街中で暴れれば巻き添えを食う人がおり、自分の躰に爆弾が埋めこまれれば狼狽するだろう、という常識を徹底して持ち続けた。
 『リヴァイアス』に『ザンボット3』より徹底している点があるとするならば、話の焦点を登場人物の葛藤に限定することにより、常識を物語のキイとして使い切ったところにあった。現に25話で示される漂流の結末は、彼らの努力とはまったく関係ない大人の事情の変化によるものだった。やはり子供は、どこまで行っても無力なのである。それが常識なのだ。
 『無限のリヴァイアス』でスタッフがとった方法論は、非常に困難なものだ。常識に依ることでこれは嘘だからという逃げ道をみずから塞ぎ、その上で半年間にわたって見続けられる物語を紡いで、かつ無力さに絶望しない道筋を示そうとしたら――どれだけの選択肢が残されているだろうか? 僕は、そういった困難をあえて引き受け、作品の質で落とし前をつけた製作スタッフに満腔の敬意を表したい、と思う。
 が――僕の思いは最終話の後半に至ってたたらを踏んでしまうことになった。全26話にわたる凄絶なドラマは、あるハッピーエンドをもって終わる。しかしそれは、これまで作品の基本原理であった常識からはとうてい導き出せないようなものだった。常識を放棄してはじめて成立する美しい嘘でしかなかった。
 たしかに美しい嘘にも、その美しさゆえに価値はあるに違いない。が、美しい嘘をあえて拒否して踏ん張る『無限のリヴァイアス』に価値を求めてきた僕にとって、その結末は疑問を残すものであった。最後の最後で、昴治はある決断を下す。しかし彼の弛緩した姿には、前話までに見られたような決断の真剣さは窺えない。常識のもたらす切実さもない。ただあるべきハッピーエンドの論理に唯々諾々と従っているとしか見えなかった。
 いままで『リヴァイアス』に見いだしてきた価値が、大団円の15分間で急に色褪せてくる――僕はTVを前にして無念の思いに堪えなかった。同時に、フィクションを作っていくなかで願望充足に走らず、常識を保つことがどんなに困難であるか、しばし考えさせられもした。
 しかし、結末に欠点を抱えていてもなお、『無限のリヴァイアス』は観るべき作品かと問われれば、僕は言下にイエスと答える。すくなくとも最終話の前半まで物語がたどった隘路は、僕たちが日々直面している隘路を明確に映しており、それはまた、隘路を前に揺らぐ僕らの常識を問い返すものであるからだ。

無限のリヴァイアス
谷口悟朗監督/サンライズ・読売広告社・テレビ東京


鈴木 力(Suzuki Chikara)
rikisaku@msh.biglobe.ne.jp

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